一休禅師が亡くなる直前、応仁の乱が始まり、時代は戦乱の時代となります。ちなみに、戦国時代の始まりは、諸説ありますが、北条早雲が、伊豆の堀越公方を滅ぼし、戦国大名に名乗りを上げたことが有力です。公方ですから将軍家の流れを汲んでいる人を伊豆から追放するのですから、下克上もここに極まったということです。

その頃、全国で戦乱が始まりますが、仏教教団もこの戦乱に参加します。全国的の規模で行われた一向一揆がそれです。浄土真宗本願寺教団によって組織された僧侶、武士、農民、商工業者などによって形成された宗教的自治を目指した運動で、中でも越中国(現在の富山県)や加賀一向一揆は一時的にせよ、「百姓のもちたる国」と言われ、戦国大名の朝倉景義、上杉謙信と対立します。

中でも、石山本願寺合戦は、上杉謙信、武田信玄、三好三人衆、雜賀鉄砲隊等各地の戦国大名や京都を追放された足利最後の将軍と同盟を組み、一時は、織田信長包囲網を形成します。この高い政治力を持ったのは本願寺の第十一代法主・顕如です。

もし、歴史にイフは、ありませんが、武田信玄や上杉謙信の上洛が成功していれば、上洛の途中でこの二人が死去しなければ、戦国の地図は大きく変わり、後の豊臣秀吉、徳川家康の浮上はなく、門徒による天下統一もありえた歴史で、日本の中世はさらに延長され、宗教国家となっていた可能性もあります。

今でも北陸地方は、浄土真宗の牙城ですが、それはこうした歴史的経緯があるからです。最後に、石山本願寺合戦は、顕如の大坂(後の大阪)退去により、終焉を迎え、各地の一向一揆も終りを告げます。

あるいは、本願寺と対立していた朝倉氏も一向一揆の対立が無ければ、足利義昭を擁して京都に上洛していたのは織田信長ではなく、朝倉氏だった可能性もあるのです。

ただ一向一揆の背景には、戦乱の世であり、田畑も踏みにじられ、戦争に駆り出され、本願寺派の人々にも救いが必要であり、「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽浄土に行けるという教えは極めて魅力的であったと言えるでしょう。

この宗教戦争が終わりを告げたことは、日本は中世から近世への移行を果たすことを意味しました。