聖徳太子は、日本に仏教を広めたたいへん大きな功績者であります。開明的で大陸文化を受容し、学問に精通し、何よりも日本に仏教を広め、そしてそれは決して当時の権力者である豪族たちや身分のある利益のためだけではなく、すべての庶民の幸福につながるものであれば、仏教を取り入れさせよと歴史の流れは、要求していた時代であることと、幼い頃から、そう考えていたとされています。

一方、時の権力者・聖徳太子の親戚でもある蘇我馬子は、中国でも三韓でも仏教を取り入れことにより、国が発展していることと主張していました。

これに対して、排仏派の物部守屋は有力豪族の一員として、仏教を信仰することは、古来の神々をないがしろにすると反対意見を述べます。

これは一見、仏教信仰と神道信仰の対立と見ることもできますが、前回で書いたように、豪族間の対立が問題の根っこにありました。

当時の天皇は、聖徳太子の父・用明天皇です。病に倒れ、崩御する直前、

「自分は、厚く三宝(仏・宝・僧)に帰依し、仏教の信仰を公式的なものにしたいという「仏教信仰の詔」を病床の中で、息も絶え絶えとなりつつも発出します。

用命天皇崩御後、崇仏派と排仏派で戦争が起きます。この時、聖徳太子は、護世護法の四天王像を彫ります。寺をたて、あまねく三宝を世に流布しようと祈念します。この祈念が通じ、最終的に、崇仏派と排仏派の対立は、崇仏派の勝利に終わります。

聖徳太子は、この戦いの勝利は大変、人生の中で苦い経験だったと想像できますが、恐らく、「この現し世に御仏の理想を実現しよう」と決意されたことでしょう。

ところで最近の教科書では聖徳太子の実在が疑問視されている声が上がっています。ですから、教科書では厩戸皇子と教えることが多いのです。

仮にそうだとしても、聖徳太子のモデルになった人物が存在したことは間違いなく、それが誰であるのかはいまだに不明ですが、人々の心の中には、聖徳太子の威徳については早くから伝説化され,各時代において,さまざまな形で崇められた太子信仰として息づいているのです。

一つはやはり仏教を広めた祖、もうひとつは、太子を大工の元祖、つまり、大工道具として欠かせないモノサシ、曲尺の使用を日本に広めた人物とされ、ここから大工や木工職人の守り神となっていったのです。

このような信仰は、江戸時代には大工、木工、さらには左官、桶、鍛冶といった職人たちが「太子講」を営み、仏教の元祖と大工の元祖の二つが融合し、今日でも聖徳太子は庶民の心に生きているのです。