さて、続いては、少し時代が下り、奈良時代に入ります。聖武天皇の時代、仏教により、国を鎮め、護るという思想が急速に広まって参ります。折しも、天平年間には、政権を支えてきた藤原4兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が政権を担っていた時代を藤原4子政権と言われますが、当時、九州から近畿にかけて流行してきた天然痘により、藤原4兄弟が全員死去します。政権の屋台骨が一気に崩壊します。その後、4兄弟のうち宇合の息子広嗣が740年に「藤原広嗣の乱」をおこし、政権は極めて不安定でした。

聖武天皇を次々と、都を移し、最後に平城京に帰還しますが、仏教をもって国を鎮め、国を護るという鎮護国家の思想に傾倒します。その結果、741年には国分寺建立の詔を、743年には東大寺盧舎那仏像の建立の詔(大仏建立の詔)を発出いたします。

ただ、もちろん、これについては貴族も庶民も反対しました。というのも出費ばっかりかさみ、庶民も労働力として不満が高まっていたからです。

この頃、行基という僧侶がおりました。この行基という僧侶は大変素晴らしい方です。

この時代、僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の民衆への布教活動を禁じた時代でしたが、民衆や豪族など階層を問わず広く仏法の教えを説き人々より篤く大変尊敬されました。

今でも近畿を歩くと行基が建設したという池や橋などの公共施設跡があり、積善行為をなした方です。朝廷からは弾圧を受けつつも、庶民だけでは無く貴族からも信頼され、大僧正という僧侶としては最初であり、最高の位に就任します。

聖武天皇は、この行基を責任者として重く用います。ただ、行基は、民から愛されつつも、大仏完成を待たずに死去します。

当時、仏教はまだ、貴族階級が独占するような形の信仰でしたが、行基という大変、立派な僧侶の功績により、近畿圏内を中心に庶民にも仏教信仰が急速に広まりました。

大仏建立は、鎮護国家の賜でもありますが、その一方、庶民への布教の一環でもあったのです。